6月22日の夜21時まえ、俺はPCの前に陣取り、正座しながらそのときを待っていた。
サークル
「straycat」さんが主催されている、プロット勉強会というものがあり、過去2回オフイベントとして開催されたのだが、そのオンライン版としてチャットルームを利用した討論が行われようとしていた。
プロット勉強会は、その名前の通り、有志がプロットを提出し、それを参加者全員の共有情報として、そのプロットに対して意見交換を行う会だ。前回はいち参加者として大いに刺激を受けた。
そして、今回のチャットにおけるプロット勉強会の議題は、俺の書いたプロットである。
俺の書いたプロットなのである。
マジか……と当初は頭を抱えていた俺であるが、すぐに思い直した。これは逆に自分の作品に対する客観性を得る最高の機会でもある。提出するプロットは実際に本にする予定のものであるので、プロット段階で多くの方の意見をいただけるというのはありがたいことではないか。こんな機会は滅多にないはずだ。
そう意気込んでチャットにログインした俺は、だが数分たって戦慄した。なんか参加者がどんどん増え、10人を超え、13人ほどになったのである。
思わず「敵が七分に空が三分!」という台詞が脳裏に去来した。まったく想定外の事態であった。カンナエで包囲殲滅の憂い目にあったローマ軍の心境はこれに近かったのだろうか。というまったく無益な発言まで脳内から飛び出したが、実際はまったくの杞憂であった。
見えてくる。見えていなかった部分が見えてくるのである。
発表予定の作品であるので、会の詳細な内容をここで書くことができないのは惜しいが、多数の方の意見が無数に眼前で展開され、ひとつに収斂されていく様子は、言い様のない光景であった。そのなかで、俺自身にも見えてくるものがある。自分に指向した建設的意見がこれほどまでに刺激的なものだというのは、前回のプロット勉強会に参加していながら、予想を超えた事態であった。
事前に提出したプロットには、自身が感じる問題点をいくつか書いていたのだが、みなさんは、まずそれにそった意見交換を行なっていく形になった。俺は意見を求められたり、質問されたりすれば答える。という形式である。思わず発言してしまった瞬間がいくつかあり、これは反省している。
そこから話は多方面に渡った。率直に言うが、取捨選択が大変じゃねーの!? と内心ガタガタ部屋の隅で震えていた。それくらい色々出てきた。
会は3時間の予定で、実際その通りに終わったが、30分くらいしか経過していない感覚だった。濃密で貴重な体験であった。
これは本当に望外のことであった。同時に重要な課題ともなるのだが。
自分はこのプロットを「文フリで出す予定のもの」と銘打っている。つまりは、可能な限り文フリで発行しなければならない。という意識は当然持っている。これはちょっとしたプレッシャーであるはずだ。
あるはずだ。と書いているのは、そのことで胃がキュッっとなるのは恐らく明日の朝くらいになるだろうからだ。
だが、方向性は既に示されているし、自分の前には無数にメモが入ったプロットが置かれている。スタートラインを踏み越えているのだから、あとは走るだけだ。取捨選択。参加者の皆様からいただいた意見をいかに料理するか、という重大な命題をまずクリアする必要がある。
ゴールできるか、前のめりに倒れることになるかは、これはもう自分自身の問題であるので、できるかぎり綺麗なフォームで走ることを心がけるほかない。
アニメの話も普通にやる。
別に早々とネタに困ったわけではない。
早速だが、放映が終了してなお俺の心を掴んで放さないアニメがある。
「ガールズ&パンツァー」だ。今日ブルーレイの最終巻が発売された。
俺の手元にはまだ届いていない。甘損め……甘損め……!!
それはとにかく、近年ここまで喰い付いたアニメは他にないと思う。
本放送を若干遅れて視聴し始めたことも加速の一因となっているかもしれない。
ミリタリー+少女。というと昨今ありがちなジャンルのひとつなのだろうが、アニメーションでしかできない表現、脚本の妙が随所に光る傑作である。
そこまで言うのはなぜかというと、その表現や伝え方が秀逸であり、作品に対する作り手の根気と愛情がこめられているのを感じるからだ。
たとえば一話冒頭。
崖上からの視点で、戦車の砲塔付け根と思われる位置。車体と砲塔が見える。その位置から、眼下を見下ろしている。視点の先には、荒野を楔型陣形の戦車隊が疾駆しており、この戦車がイギリスの歩兵戦車、チャーチルとマチルダⅡで、その時点でMildのテンションは上がり始めた。
少女2人が会話する声。イギリス戦車隊について話し合っている。
そして会話が終わり、少女2人が現れ、画面に近づいてきたかと思うと、視点の設置位置であった戦車に乗り込んで、そのまま戦車主観の視点で旋回を始め、さらに移動し始めるのである。
視界には次々に味方と思しき戦車が映る。ピンクに塗装されたM3リー(開いたハッチから少女が手を振っていたりする)。のぼりがついた極彩色のⅢ号駆逐戦車。百式みたいな色合いの戦車までいる! あとでそれが38(t)だと知ったときは本当に驚いた。こんな奇天烈な装飾の施された戦車でいったい何をどうするつもりなのか。日本の89式戦車も最初に映って、色合いは普通なのだが、ソ連戦車みたいに側面にバレー部の復活がどうとか書いてある。処理能力が追いつかずどういうことなのか判然としないまま、砲塔が一回転しつつ視点が引き、その戦車。ドイツのⅣ号戦車と、搭乗員の少女5人が映し出される。
……という調子で始まったガルパンに、Mildはがっつりハートキャッチされてしまった。出だしとしてここまでグッとくるものを感じたのは久しぶりだった。さらに稀有なことだが、一話として楽しめなかった回は存在しない(総集編が2度もあったり、放送スケジュールに紆余曲折があったのにである!)アニメともなった。
自分は小ネタが大好きな人間であるので、ガルパンの随所に散りばめられたミリタリーネタも楽しかった。
たとえば4話で、後輩の女子生徒チームがピンクのM3リーの車上で大貧民をしている。というシーンがあるのだが、そのトランプにパンジャンドラムが描かれていたりするのである。
パンジャンドラムである。よりによってパンジャンドラム。
第二次世界大戦屈指の珍兵器として名高いあれである。どんな兵器かというと、 「ロケット推進式の自走陸上爆雷」というもので、当然失敗作だったのだが、どこかに動画もあるはずなので是非観て欲しい。凄い危ない物体である。
このアニメは随所にこんなのばかり盛り込んである。
もちろん、これらのことだけでガルパンが好きになったわけではない。
世界観を匂わせる数々の描写。「明言せず散りばめる」手法を随所で使って許されることは、映像作品の特権だろう。ディスクでは追加のOVAである程度補完も試みられている。主人公たちの通う「学園艦」なるものがどのような存在なのかを解説してくれるOVAはとくに楽しかった。
主人公たちのキャラクター性の明確さ。序盤から登場する味方は、普通に作中で名前が明言されなかったりするのだが、ビジュアルと二、三の台詞でどのようなキャラクターか容易に認識させてくれる。それでいて、昨今のアニメの流行に反して、キャラクターデザイン自体は地味な感じなのである。ピンク色の髪の毛の女の子とか出てこないし。金髪は結構出てくるが。あざといストイックさと言ってしまうと乱暴だが、この匙加減は絶妙だと感じた。
そしてもちろん、戦車戦の映像は圧巻の一言である。このアニメのその点における真価は4話から発揮され、12話で見事に昇華される。そういえば最終回を惜しみながらみたアニメというのも随分久しぶりだった。
完全に余談だが、というか余談しかしていない気もするのだが、WWⅡの戦車というと自分はまずM4シャーマン系列が浮かんでくる。このアニメにも当然登場するのだが、そのなかの一台、英国の傑作魔改造兵器として名高いファイアフライの砲手の少女がこれがなんか超格好いいのである。口数が少なく(戦闘中の台詞が2、3くらいしかなかったような気がする)、クールでニヒルなキャラクターである。もうそれだけで凄腕に見える。女子高生なのに。格好いい。Mildはクールでニヒルなキャラクターが好きである。次元大介とかああいうのである。M4といえば一番好きな型はM4A3E8である。陸上自衛隊も配備していたことがあり、「M4特車」とか日本では呼ばれていた奴で、足回りの戦車らしいメカメカしさがもうたまらない。
例えばマチルダⅡなどがどう見てもスペック以上の速度を出していたり、多くの戦車で砲塔旋回速度が早すぎるように思えたり、「戦車内部はカーボンコーティングされているから中に乗っていれば大丈夫」なことなど、現実に則さない部分も多いのである。だが、これは暗黙の了承というか「そういうものなんだろう」と思えるのである。余裕で全然許容範囲である。だって10式戦車が空挺降下するアニメなんてこれしかないだろうし、B1bisとマウスが正面で見つめ合うアニメなんて本当にこれだけだろう。そして、M4やT-38が沢山走っている。イギリス人のような日本の女子高生が戦車内で紅茶を飲んでいる。女子高生が「戦略大作戦」を見て泣いている。ぶっちゃけ最終回は俺もガチ泣きしかけたくらい感動した。それくらい楽しいのだからいいじゃないか。
ちなみに好きなキャラはグデーリアンとエルヴィンとナオミだが、好きなチームはバレーボール部である。最終話の撃破される直前の某台詞には視聴者全員が万感の想いを抱いたはずだと信仰している。
ここまで書いて、記事をアップロードしようとして、一度見返して冷静になったが、俺のこのブログは時折こういうことをするのだ、ということを、ここに辿り着いた奇特な方々に知っていただくためにも、ちょっと考えた末に残すことにした。こういう話題本当に必要なの? とか細かいこと考えたら負けなんである。
動画の埋め込みも試してみたかったし。
ガルパンは今後OVAと映画が控えている。実に楽しみである。
最初に言っておくが、リュック・ベッソン監督の映画の話ではない。
俺が所属しているはずの、創作文芸サークル「MisticBlue」の代表である、みすてーが著作するファンタジー小説のほうが題材である。
現在、1巻から3巻までが発行されている。
第一作は2009年に発行。足掛け4年。もう4年も経過したという事実に今驚いたが、その4年のあいだにろくな執筆活動をしていなかった自分が言えた義理ではない。
俺はこれからこの作品をベタ褒めしたり、宣伝しようとしているわけではない。こうやって書いている時点で宣伝していることになるのでは? という意見に対しては、断じてそんなことはないと言っておく。
そもそも、自分でもどうかと思うが、作品の内容にはあまり触れない。あとやたらと長くなってしまったので注意してほしい。
自分とみすてーのつきあいは相当に長い。そろそろ10年を越しているはずで、そのあいだにお互い色々なことがあったが、創作文芸というものに自分が関わった、あるいは関わっている事柄の大半において、みすてーという人間の存在は非常に大きなウェイトを占めている。
自分が文フリに行くようになったこと、タトホンに参加したいと思ったこと、コミティアにたまに行くようになったこと、本来買い専であったコミケでスペースの内側に立つようになったこと、アイマスにハマったこと、何よりも、稚拙で遅速ながら、また自分の文章を物するようになったこと。
他にも色々あるが、みすてーの影響なくして今の自分は存在しないはずなのだ。もちろん、みすてー以外にも多くの人々に、この10年という線路の上で出会ったし、特筆すべき得難い出会いも多い。
だが、やはりみすてーは別格である。普段言わないし、今後も言わないだろうからここに書いておくが、これらのことについて、みすてーには感謝しているのだ。
それ故に。ちなみにここからが本題なのだが、みすてーの人となり、そして「Transporter」の成立した経緯をそれなりに知っているからこそ、自分はこのシリーズに我慢がならない部分がある。
それはクオリティの問題である。
拙速を求めるあまり、稚拙な部分が多く残りすぎているのがどうにもこうにも我慢できないのだ。
どうしてそうなるのか。という原因について、俺はよく知っている。
だから俺は、この作品をかろうじて許容できている。
だが。まったく初見で、なんの予備知識もなく、「なにやらいい感じの小説があるぞ」と思って手にとったいち読者には、そのような防波堤は微塵も存在しないはずなのだ。
その状態で、たとえば第3巻を読んだとしたらどうなるか。想像するだに恐ろしい。
「こいつはなんでこんな事を言ってるんだ?」と思われる方もいるかもしれない。そう思われた方はこの先を読まない方がいいと思う。だが、僚友の著作だからこそ、俺は半ギレ気味にキーボードを叩いている。そのことは理解して欲しい。
たとえば。俺があるイベント会場で、名前も知らず、よさそうだから。という理由で手に取った同人文芸小説があるとする。イベントを満喫し、くたびれた足で帰宅し、戦利品を眺めて悦に入る。ちょっと経ったあと、その小説を読む。それがもし、いまいち面白くなかったとしたら?
あとには、なにも残らない。ヘタをしたら「数百円無駄にしたな」とか「これこれこういう部分が最悪だった」くらいの負の感情が残るかもしれない。だが、きっとその程度だ。その程度でその作品との繋がりは終了である。次のイベントまでに、サークル名はおろかタイトルすら忘れてしまうかもしれない。
自分の著作がそうなるのは、誰だって嫌なはずだ。面白かったと感じて欲しい。心の片隅にでも残っていてほしい。そう思うはずだ。これは利己的で傲慢な発想だろうか。自分はそうは思わない。
自分が小説を書こうと思ったのはそういうことで、だから自分は「アイデアル・ワールド」の主人公が大好きなのだが、これは前回に書くべきだったのではないかと思うが、どうにも話が逸れている。
実を言うと、自分も二、三度ほど手酷い失敗をしたと自覚したことがある。仕上がった作品は自分の目から見て酷い出来だ。だが、手に取り、金を出してくれる人がいるのである。
これは恥ずべきことだ。そう自分は感じる。してはならないことだった、と思うのだ。
作品の完成度を高める努力は最大限に行うべきで、「他者が見た時にどう思うのか」という客観性を喪失することを許容するべきではない。我々がたとえアマチュアだとしても。むしろ、アマチュアであるからこそ我々は制約なく作品の完成度を追求できるのではないか。
みすてーは、横から見ているとそういう姿勢が少し欠落しているように思うのだ。
きっと本人は「そんなことはない」と思っているかもしれないが、だとしたらなおのこと問題だ。俺にはそう見えるのである。これは完全に傲慢な発言だが、ここではそうだったらそうなのだ。
別に完璧に面白い小説を書けなどという、どう考えても達成不可能な命題を突きつけているわけではない。そもそもそんなもんが書けるんだったらさっさとプロになってくれと言うだろう。きっと歴史に名が残るはずだ。
自分は2回ほどみすてーに「責任を持て」と言ったことがある。「自分の書いた作品に責任を持て」という意味合いである。どういうことかというと、作品は形になれば終了かというとそうではない。読者の記憶や心に、一時でも何かを残せない作品になんの価値があるだろうか。そこまでを考えることが作品に対する最低限の責任の範囲であるはずだ。余計なことを考えすぎだろうか? 自分でも自信がない。
無論、自分が思い描いた作品が完全な形に結実したとして、それが人の心に響くとは限らない。それでも、人に伝える努力を怠ってしまっては、その望みを持つことすら不可能ではないか?
自分は普段、そんな事を根本に置きながらテキストエディタを睨みつけている。 読み手なくして作者の存在価値は皆無だ。誰の目にも止まらず風化していく作品は価値がない。だから少しでも面白いものを作ろう。そう考えたいのだ。自分のような存在がそんな考えを持つ事自体が間違っていると言われたら、反論の余地はないが。
ここまで書いてからいうが、諸々の部分に目をつむると、「Transporter」はそこそこ面白いのである。そこそこ。まったく完全になんの価値もなかったらこんなことは言わない。
困るのはこのせいなのだ。文章面でブレーキがかかったり、内容が圧縮されすぎていて逆にテンポが悪くなっていたり、一人どうしても好きになれないキャラクターがいたりするが、それでもそこそこは面白いのだ。これは決して友人ゆえの甘い評価ではない。あくまでそこそこ面白いとしか思っていない。つまり、いまいち面白くない部分もあると感じている。
凄くもったいない。そう思うのである。磨けば光る原石を乱雑にカットしてしまい、商品価値が無くなった石ころみたいだ。と思ったことがあり、みすてーには言わなかったが、思い出したので書いてしまった。
ここまでに書いているようなことの一部を本人に直接言ったことは、多分三回か四回くらいあるはずだが、そのうちの一度のやりとりのとき、みすてーがなんと言ったか、自分は今でも覚えている。きっと生涯忘れることはないだろう。
「(作品を)ちゃんと形にできていない人間にそう言われてもな」と、奴は言ったのである。軽い口調だったから、ちょっとしたジョークだったのかもしれない。だが、言われたほうはそれでは済まない。告白するが、かなり深刻な衝撃を受けた。あんな発言が帰ってくるとは夢にも思っていなかったし、同時に、俺の意見なぞ奴は歯牙にもかけていないのでは? と邪推もした。その妄想は悲しい事だった。もちろん、俺とみすてーの立ち位置だからこその彼のあの発言であろうし、当時の俺は本当にgdgdだったので、一面ではこれほど正当な反論はないと、今になれば思える。しかし俺だってそこまで心に深く突き刺さるような発言はしたことがないはずだと思ったが、とんだ心得違いだった。俺はみすてーに「おまえの文章は最低だ」と言った旨の発言をしたことがある。これは謝罪したい。
とにかく、みすてーにそう言われて俺はカチンときた。テメー言ったなこの野郎、と思った。
これは俺が現在小説を書く原動力のひとつである。そうして完成したのが去年の文フリ15で発行したコピー誌であり、タトホン7で発行したコピー誌なのだが、タトホン7の方が先述の「手酷い失敗」と感じている一事で、今でも思い出すと布団の上で転げまわりたくなる。突然略称とはいえ名前を出して申し訳ないが、某S氏がその作品を端的に評した一言は、目の前の壁に標語として貼り付けてある。
今にして思うのは、みすてーの発言は一部において正しいのだろう、ということだ。自分の作品を納得のいく形で生み出せなければ、俺がみすてーになにをどういったところで説得力はないだろう。それはわかる。わかるが、だからといって俺が口を閉ざさなければならない完全な理由にはならない。だからこういう事を書いた。
内容が内容なので書き上げるのに数時間を要してしまったが、この時間で本文が何文字書けただろうか、ということに想いを馳せて軽く鬱になった。ちなみにこの記事は大体3500文字前後あるそうだ。ここまで読み進めた人がいたとしたら謹んでお礼を申し上げたい。
トランスポーターの話ではなくなっている気がする。この記事の正しいタイトルは
「俺とおまえとTransporter」くらいが妥当だったのではないか。
とにかく、この辺りで筆を置く。