このブログの目的のひとつに、自分が読んだり、観たり、聴いたりしたもののことについて、思ったままを書く。というものがある。
その最初のひとつはもう決まっている。
サークル
「佐藤」の佐藤さんの「アイデアル・ワールド」だ。
発行は2011年6月。
喜ぶべきことか、惜しむべきことか判断が難しいところだが、先日絶版となられたようである。
だが、現在電子書籍化されたものを購入することができる。
創作文芸同人誌が電子情報となって空中を飛び回っているわけだ。時代に感謝すべきだろうか。
この本を読む以前の自分。2011年以前の自分は、創作文系というものの立ち位置を随分と下に見ていたように思う。
今にして思うと恥ずべきことであるが、確実にそういう感性を持っていた。
理由は簡単である。創作文芸は売れない、パッとしないジャンルだからだ。
自分はそれでもいいと思っていた。そういうものなんだからと。傲慢で幼稚な考え方である。
それがある日、木端微塵に打ち砕かれた。俺の心を粉々にした長方形の物体こそが「アイデアル・ワールド」だ。
この物語に感じたものを一言で語ることは難しい。
明るい物語かというとそれだけではない。
陰惨でははないがそのような描写もある。
悲しい物語か? そうであるようにも思う。
では、激しい物語なのだろうか。そうした一面も持ち合わせている。
読み進めるたび、ありとあらゆる感情が沸き起こってくる。
これが、特に優れた物語の持つ要素のひとつであると信じているが、この物語にはそれがある。
主人公の諦観、懊悩、純朴、決意。
彼の周囲に居る大人たちの理想と挫折、苦悩と努力。
「理想の人間たち」の純粋さ、それに伴う危うさ、儚さ。
そして「子供たち」が見せるもう一方の純粋さ。
これらを感じるたびに広がっていく世界は、この本の表紙を彩っている青空に似ている。
表紙といえば、最初にそれを見たとき、裏表紙には「ノンジャンル・青春エンターテイメント」と書かれていた。これはつまり、どういう物語なのだろうか? と首を捻ったものだが、次に裏表紙と再会したとき、これは確かにノンジャンルの青春エンターテイメントだった。
佐藤さんはあとがきにこう書いている。
「物語をどう受け取るかは、読み手の自由だ」と。
そして続けてこうも書いている。
「この本をもっとも楽しめるのは、きっとジャンルにとらわれない人だ」と。
さすが書いた本人である。という、当たり前の、かつ的を外れた得心に対し、馬鹿みたいに頷いていた自分は今思い出すと滑稽そのものだが。
人がこの物語に感じることは、読んだ人間の数の数倍はあるだろうと感じる。そういう物語なのだ。
それまでの主観的な価値観で枠を狭めていた自分は、囚われている人間だったのだろうと思う。
楽しむ以前の問題である。俺は、そのような価値観から自由でありたいと願い、その上で自分の自由な感性で物語を楽しむ事を欲するようになった。それで何が変わるだろうか? おそらく、何も変わることはないはずだ。表面的には。
だが、世界には、時や場所を選ばず、ありとあらゆるところに素晴らしい物語が散らばっている。
そのなかでも最上のもののひとつに、あのタイミングで出会えたことは幸運というほかはない。
何度目かの読了をするに至って、想いを馳せずにはいられない。
自分は、あのときよりも自由にこの物語を楽しめているだろうか。ということを。
このブログを始めようと思った理由は3つある。
ひとつ、各活動などの発信場所としての拠点が必要だと感じたこと
ひとつ、この手のサークル活動を行なっている人物はすべからくブログを持っているという事実
ひとつ、みすてーの「MisticBlue」のHPにコンテンツを増やしてやろうと思ったこと
そして目的はひとつである。
自身の創作文芸活動や、それに関連した物事の発信場所を欲したのだ。
俺は、創作文芸。つまり同人活動において小説を物する活動を行なっている。
友人でありサークル「MisticBlue」の代表でもあるみすてーは、この活動を長く続けているが、俺は諸事情により中座しつつ、といったところで、優秀な人間とはいえない。
だが、一昨年、昨年と色々あって、もっと本気で書きたいし、そうすべきであると感じたので、ちまちまと同人文芸界隈に出没を試みるようになった。
その活動の一環がこのブログであり、今のところそれ以上の意味は存在しない。